暖かい風が頬を撫で、青く、柔らかな草木達が囁き掛けてくる。

 

『ここは、幻想の世界であり、憧れの理想郷です』

 

嘘だ。

 

それは全部、嘘だ。

 

全部が嘘で、そこにあるのは、黄金色の草原ではなく、

ブタ野郎の毛むくじゃらな腕だった。

 

無意識の下、いつの間にか寝落ちしていた私は、１本の肘掛けの上で、

ブタ野郎同士、お互いの存在を主張し合い、縄張り争いをしていたようだ。

 

とは言え、不思議な気分で目覚めたのは、機内アナウンスが入り、

搭乗者達がざわめき始めた頃で、既に、陽は落ち、夜が始まっていた。

 

１８～１９時頃だろうか、しばらく経つと、ブタ野郎の横から、

キツいパーマの掛かった、ショートヘアの白人女性が現れ、

ブタ野郎に、何かを聞いている。

 

ブタ野郎は、外人特有の得意気な顔をしながら、パーマ女に何かを伝えていた。

 

パーマ女の正体は、スチュワーデスさんで、

どうやら、これから始まる機内食の注文を受けているようだ。

 

久保大五 １９才

 

今でも尚、公用英語の苦手な私だが、当時の語学力は、更に貧弱で、

使えたのは、マイネイムイズダイゴクボ、ワッタイムイズイッ、ハワユ、

アイムファインセンキュウ、イェス、ノー、ハロー、ファック等の、

幼稚園児でも使える初級の英語のみだった。

 

おまけに、照れ屋で情けない私は、外国人に対して、外国語で話す事が、

とてつもなく恥ずかしい行為だった故、控えめな音量で、

ポソポソと喋る事が精一杯だったせいか、何を言っても、相手に伝わらない。

 

何度も同じ事を言ってくるパーマ女に対して、私は、ポソポソと、

『チ、チきんを・・・、プリイズ、あ、ちチキン・・・、

えっと、あ・・・、じゃあ・・・、フィッシュ・・・、えっと、

矢っ張り、チキン、プリイズ・・・』のような事を言って、パーマ女を困らせていた。

おまけに、ブタ野郎までが、横槍を入れて来る始末だった。

 

今にも、外人特有の表情で、ため息を吐き出しそうなパーマ女に対して、

なかなか伝わらない気持ちを、私は、簡潔に、必要な単語だけを述べた。

 

『チッキッンッ！！』

 

久保大五 １９才

 

それが、初めて成功した、本物の英会話だ。

 

パーマ女は、口をすぼめ、目を開きながら、眉毛を上げた。

 

これも、外人特有の表情で、きっと、「はいはい」と言ったところだろう。

 

パーマ女は、何事もなかったかのように、前の席へ移り、

業務的な『チキンオアフィッシュ？』を繰り返しながら、どこかへと姿を消した。

 

しばらく経つと、後ろの方から、美味しそうな匂いが漂ってきて、

再び、機内がざわめく。

 

搭乗者達は、機内食を楽しみにしていたようだ。

 

結局、手元に届いたのは、粗末な紙皿に置かれたパンと、

じゃがいもとニンジンが入った、べちゃっとした鶏肉のホイル蒸しで、

ささやかな機内食だったけど、それでも、１４時間の航空で、嬉しい時間だった。

 

食後には、お茶も出てきたし、２１～２２時頃には、

機内サービスのお酒まで用意されている。

 

酷評ばかりのエアカナダは、心細い１人旅の未成年者からすると、天国そのものだ。

 

当時、お酒を理解していなかった私も、この時ばかりは、祖国から離れた海の上で、

注文した(無言でメニューを指して注文した)ウォッカを揺らしたり、舐めたり、

ジョメイカの事を考えたりしながら、再び、闇の中へと誘われていた。